阿波人形浄瑠璃の世界 トップへ戻る
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阿波の人形師
現在人形浄瑠璃に使用されている頭のほとんどは、阿波に関係ある人形師の作品であると言われるほど、阿波から多くの優れた人形師が生まれています。
阿波で最初の人形師は江戸時代に活躍した駒蔵が定説。娯楽性の強い文楽に対して、阿波や淡路の人形芝居は宗教的な面がまさっています。興行は神社の祭礼やお寺の行事に合わせて野掛け小屋で行うことが多く、箱廻しや恵比須廻しの門付が盛んであり、それが人形頭の製作にも影響しています。
阿波の人形作りが淡路を凌駕し始めたのは天保年間(1830〜44)以降のことですが、型は淡路の人形と全く同じでした。明治の初め天狗久によって頭の大型化が図られ、地方巡業する人形座に歓迎されたため、全国的にも有名になりました。しかし大きな頭は重く、さらに従来12頭身であった人形が6頭身になり、グロテスクな感を与えました。また細かい感情の表現が難しい等の理由で、文楽系の人形座ではあまり使用されませんでした。
 
阿波のかしらの特徴
【1】頭(かしら)の塗り  文楽系= 艶消しで比較的簡単な塗り。
  阿波系= 胡粉(ごふん)に膠(にかわ)を加えたものを20〜30回繰り返し塗る。
木賊(とくさ)で磨いた後、木綿で磨く。さらに上塗りして輝きと艶を出す。

【2】心串(胴串ともいう) 文楽系= 顔の線と心串が平行。
  阿波系= 心串に対し20〜30度程度上に向いている。アゴが突き出たいわゆる鉄砲ざしのかしら。

【3】のど首 阿波系= のど首は古いものほど太く、小判のくりも大きい。
小判は古いものは円型に近く、首の動く範囲が大きくなるにつれて、楕円型に変わっている。

【4】カマの傾度 文楽系= 男頭は140度、女頭は130度。
  阿波系= 男女とも150〜180度。

【5】かしらのウナヅキの糸 文楽系= 心串にある「ト」型の引栓が、心串の前面にある細長い溝の中にはめ込まれている。
  阿波系= 心串上端のサラに穴を開け、そこから引糸が垂れ下がっている。
その糸の端に固定用の引っかけが付いている。
 
年代順に見る阿波の人形師
阿波の人形師の草分け
駒蔵(駒三)
享保年間(1716〜36)のころの人というのが定説でしたが、眼の動く工夫や、眉が上下する人形の作りを考えると、宝暦・明和年間(1751〜72)のころとも思われます。また天明・寛政期(1781〜1801)と言う説まであります。今の所断定できる資料は出ていません。
淡路に生まれ、仏師でしたが、人形遣いとなり、阿波へ移ってから人形製作者になりました。今の徳島市助任本町、大岡馬之瀬に住んでいました。そのため俗に馬之背駒蔵と呼ばれています。今までに十個余りの頭が発見されていますが、いずれも銘はなく、多くは天狗久の鑑定によるものです。
彼の作品は初め無曲(細工なし)でしたが、後に眼が左右に動き、切あご、口開きなど細工がされるようになりました。頭の彫は徳川時代の仏師が使った、逐条法による条痕がはっきりと残っており、彼が仏師であったことを示しています。それは特に下眼瞼から鼻梁にかけて、耳朶の彫によく表れています。作品には材質の木目を生かした優れたものがあります。そのうち享保年間の作と推定される、三番叟のかしらが県の有形文化財に指定されています。

万芳

享保のころの人。板野郡堀江村で製作していました。在銘のものは一個しか発見されていません。それを見ると口の開き具合などに苦心のあとがみられます。作り方を見ると明和・安永年間(1764〜1781)ころでないかと言う説もあります。

利貞

享保のころの人で、住所はわかりません。署名と製作年月の入った頭が一個発見され、天狗久が修理したと言われていますが、現在その頭の所在は不明。古くても宝暦年間(1751〜64)のころと言う人もあります。

鳴州

鳴門市撫養で生まれ、牢の浜(徳島市藍場町)で製作していました。文化三年(1806)に死亡したといわれ、寛保のころ(1741〜44)に生まれ、安永(1772〜)から天明・寛政・享保・文化と人形の製作を続けたのではないか、とも言われています。もともと画家で、人形頭の中にある銘は達筆。作品は今迄に徳島で六個、東京八王子市に一個、滋賀県に一個発見されています。そのうち在銘のものは三個で、東京のものは娘頭で、文楽の頭に似ており、阿州鳴州と銘があり、滋賀県のものはふけ女形の頭で、口は開かず動く眼が邪性をよく表しています。鳴州五十七歳の作です。徳島にある一つは、鳴州六十一と書かれた、内匠頭に使う角目頭です。

卯之助

鳴州の甥。寛政・享保年間(1789〜1804)のころの人。鳴州に従い牢の浜で製作していたとも。徳島市古物町で製作していましたが、三十余歳で没したとも言われています。作品は悪婆が一個発見されたとして、久米氏の本に写真が載っていますが、角目(口あき、四寸四部)一個という記録もあります。

近蔵

同じ鳴州の甥で、天明年間(1781〜89)のころの人と言われていますが、証拠はありません。男頭が一個発見されているだけです。初代天狗久はその作品を修理し、非常に良くできた頭だとほめていました。

源兵衛

文政年間(1818〜30)のころの人で、徳島市佐古大谷で製作していました。佐兵衛の師匠で作品は天理参考館に武者頭があります。目と眉、口の動く三曲頭です。県指定の有形文化財の中にも、源兵衛の作と言われる頭がありますが、それに対しては異説が出ており、今後の研究が待たれます。

善平

善兵衛とも書き、文政のころの人で、徳島市蔵本町で製作していました。眼の動く悪婆と娘頭一個が発見されています。天狗久もよい頭があるとほめていたと言われています。

佐兵衛

名東郡岩延に生まれ、嘉永六年(1853)六月に死去。徳島市佐古の源兵衛に師事し、後国府町和田に移り住みました。仏師から葬具師となり、更に人形師になった人で、罪のため阿波を追放され、讃岐にいましたが、ひそかに帰国して人形作りを再開しました。徳島に帰った佐兵衛は、源兵衛の家で製作したと言われており、帰国後は自分の名前を使用せず、製作した人形は無銘か、または人形忠と署名しました。そのため佐兵衛の頭が混入しています。佐兵衛はまた福山佐兵衛、横山佐兵衛、清水兵衛などの名を使用しました。
 
かさね口がタテに動くのは、このひとの発明
初代 巳之助
大江美之助とも言う。大黒屋といい、鳴門市大津町大代に住み、鬼瓦師からまたは玩具屋から人形師になったと言われています。かさね口がタテに動くのは、この人が発明しました。作品は少なく、殆ど残っていません。

大江常右衛門

徳島市国府町和田に生まれ、大江または原の姓を用いました。作品には大江常と書いたものが一個ありますが、息子の順右衛門の作品と共に、「大江順」を銘しました。あまり良い作品は無いと言われています。

大江順右衛門

常右衛門の子で、徳島市国府町和田で父の指導をうけ、共に人形を製作していましたが、後に大阪文楽座の座付人形細工師となり、「順楽」の名で明治四十二年一月から五月まで、四回の番付にその名が記載されています。その後淡路に移り、大江順栄という名で、淡路座の人形製作や修理をしました。明治四十五年に死去。三原町市村に墓があります。
色々な作品を残していますが、特に娘頭に良いものがあります。郷土文化会館には八個の頭を所蔵し、天理参考館にも寄年、角目、莫耶など九個蔵しています。大江順治郎、順次郎等の署名を用いています。

原田増太

鳴門市大津町矢倉に住み、張子玩具を生業にしていたと言われています。明治十四年作のものが香川県で発見されています。その頭は写楽の版画の役者絵に似た面白い顔をしています。死亡年月日等もわかりません。
 
今の美しい阿波人形の塗りは、この人の研究によるもの
人形富
本名川島正富。文化十三年(1816)十一月徳島市国府町和田の田蒔貞右衛門の四子に生まれ、明治二十七年八月七十九歳で死去。(文政十二年=1829=一月生まれ、六十五歳死亡説がある。)通称川島富五郎。若くして江戸に上り、自炊しながら吾妻人形の頭の彫を習い、京都でも御所人形の彫り方や胡粉の塗り方を研究しました。(伏見人形の塗りを研究したと言う説もある)十年の修行をした後和田に帰り、頭の動きに鯨の歯を使用するなど、彼独自の工夫をした人形を製作しました。今の美しい阿波人形の塗りは、この人の研究によるものです。
極めて口数の少ない、固苦しい几帳面な人で、技の狂わない仕掛けを作る事が、非常に勝れていました。特にツカミ手は阿波人形師の作品の中でも、一番使い易いと、人形遣い達の評判でした。しかし「型通りで几帳面にするという心がかっておりますなあ、どうしても人形も型通りになって…顔の勢い言うたら普通になりますわあ」[天狗屋久吉芸談]というように、表情には勢いが無かったと言われています。娘頭には優れたものがあり、その門下から人形忠、大江順楽、初代天狗久、天狗弁などの名工が出ました。
 
「頭を彫るには人相骨格を知らないと彫れるものではない」が持論
人形忠と人形友
【人形忠と人形友】
人形忠
本名清水忠三郎。天保十一年(1840)、二月清水佐兵衛の長男として、徳島市国府町南岩延に生まれました。屋号は福屋。大江忠二郎、横山忠二郎、清二郎ともいい、佐兵衛と共に和田に移り製作しました。明治四十五年六月七十三歳で死去しましたが、天真爛漫、奇言奇行逸話に富んだ人で、仕事は気が散るからと言って、専ら夜中過ぎてから励んだといいます。「頭を彫るには人相骨格を知らないと彫れるものではない」と自分の人形頭には、一つの見識を持っていました。また家の看板に「人相見料一円」「驚く者は入るべからず」と掲げて、人相も見ていました。晩年は能面や狂言面と共に、大黒や恵比須の像を彫り、あまり人形は作らなかったと言います。
人形忠が作った頭は、阿波や淡路の人形座にあるのは勿論、郷土文化会館にも四個、天理参考館に十二個。贈答品にしたものも全国的に散在しており、県の有形文化財に十四個の頭が指定されています。

人形友
友二、友三とも言った。人形忠の長男(先妻の子)で、安政七年(1860)徳島市国府町和田で生まれました。青年期まで父のもとで製作していましたが、後人形友として独立し、愛媛県宇和島に移り製作しました。そのため作品は徳島県には少なく、愛媛県の大谷文楽、菅原座、朝日文楽などに多く残っています。大正十一年二月六十四歳で死去。

人形泉

本名清水泉次郎。人形忠の二男、父兄と共に国府町和田で、人形製作を行い、頭には人形忠、忠泉と銘を入れています。北海道に移り、仏師として彼地で有名になりましたが、死亡年月日等不明。作品は阿波に一個、淡路に一個残っています。

来太
人形忠の三男で、人形の製作は父のもとで行っていましたが、後に上阪、南天棒の弟子となり、天然と称して禅宗の門に入りました。遠く中国の五滝山で修行し、戦後和田に帰ったが昭和二十四年二月、阿波郡林町で客死。来太の作った頭の秀作は、徳島市内の料亭にあると言われています。
 
最も有名な阿波の人形師。人形の眼に硝子玉を使い、人形を大型化した
初代天狗久
【初代天狗久】
初代 天狗久
本名吉岡久吉。安政五年(1858)五月徳島市国府町中村の笠井家の三男に生まれ、国府町和田、吉岡宇太郎の養子となり、吉岡姓を名乗りました。十六歳の時人形富に弟子入りし、二十六歳で独立。人形富の下で修行中の作品には、日下海山の銘を用いたものが多く残っています。天理参考館にある頭には、阿州和田、若松屋、日下海山、二十五才作という銘があります。このころの作品は師匠の影響下にあったため、柔らかで静かな美しい作品が多く、後年のような写実的な、荒々しいものとは相違があります。
阿波で人形の眼に硝子玉を使用したのは、彼が初めてで、明治二十年ごろです。人形の大型化も彼が始めたもので、明治末、大正初期には、大人の頭位もある大型の頭を作りました。しかし頭を大型化すると、衣装もそれにつれて大きくなり、人形遣いはその重さのため、操りが大ぶりになって、細かい人形の表現を難しくしたと言われています。また彼の作品はあまりにも写実的で鋭すぎるため、文楽人形としては不向きだったと言う説があります。しかし大正二年五月、近松座で上演した「国の華大和桜木」の乃木将軍と静子夫人の頭のような、新しい一役頭を作るなど、中央でも十分評価されていました。
独立後の屋号は天狗屋といい、看板に世界一と書き、自作の天狗の面を張り付けていました。彼に弟子入りした天狗弁や、息子の天狗要、孫の天狗治の作品に手を加え、天狗久の銘を付けて出しました。そのため個人の作としては、非常に多くの頭が残っています。県指定の有形文化財になっているものだけでも、四十八個あり、全指定の60%も越えています。
彼の作品には久義の銘もありますが、宇野千代の小説『人形師天狗屋久吉』を始め、文化映画に二度出演するなど、阿波の人形師としては、最も良く知られた人です。昭和十八年十二月、八十六歳で死去。
 
どんな種類の人形頭でも製作できる技を持つ
天狗弁
本名近藤弁吉。明治六年十二月、徳島県名西郡入田村矢野奥谷、板橋浅吉の二男に生まれ、十四歳(十六歳ともいう)の時天狗久の弟子になり、十年修行した後独立し天狗弁と名乗りました。国府町矢野、近藤ウメと結婚し近藤姓に変わりました。淡路や阿波の座付人形師になり、新作や修理を行っていましたが、大正年代二年余り大阪近松座の座付人形師になり、一時郷里に帰りました。大正十三年再び上阪、文楽座の人形細工師になり、番付にもその名を連ねていました。文楽座は大正十五年に焼失したため、焼けた人形の補充と修理を担当し、どんな種類の人形頭でも、製作できる技を持つに至りました。特に角目、別師、ふけ女、娘の頭に優れた作品があります。そのうち大阪市立博物館が所蔵する娘頭は、もと徳島県の有形文化財に指定されていました。作品は郷土文化会館に十二個あるほか、天理参考館、徳島、淡路の人形座などに数多く残っています。
昭和二十九年県教育委員会から文化功労者として表彰され、三十七年には徳島県の人間文化財に指定されましたが、四十四年三月九十四歳の高齢で死去。
 
養父天狗久と共に製作
天狗要(二世天狗久)
本名吉岡要。明治十三年十二月徳島市国府町の黒田家に生まれ、初代天狗久の長女しげりの養子となり、大正四年七月三十六歳で没しました。若くして死亡したため、製作する期間が短かったばかりでなく、養父天狗久と共に製作し、要の作品に天狗久が手を加え、天狗久の名で世に出したと言われています。そのため天狗要の銘がある作品は少数です。淡路の人形座で使っていた要の頭が、大阪市立博物館に四個入っていますが、そのほか二個程しか確認できていません。自分の個性を出し切れないまま早世したため、その作品はどことなく弱々しく寂しい感がします。
 
祖父天狗久の技法をあますことなく受け継いだ人
三代目天狗久
【三代目天狗久】
天狗治(三世天狗久)
本名吉岡治。明治四十四年十二月天狗要の二男に生まれ、少年時代から初代天狗久のもとで修行し、天狗久の技法を剰すことなく受け継いだ人と言われています。生涯に彫った人形は百個を越え、女形の頭では初代以上でした。しかし「これが私の木偶だよ」といったのは、死亡する五年前に作った、加藤正清の頭だけでした。いつも祖父の作品と比較し、自分に満足することなく、貧乏に耐えながら一個一個彫り続け、優秀な作品を残しました。昭和五十三年十月六十六歳で死去。
治の母しげりは、古い頭の鑑定から塗り、衣装の着付や髷付まで、他に比べる人はいないと言われる程、高い技術の持ち主でした。

二代目巳之助 栄吉
本名大江栄吉。明治時代の人ですが、舞台の大道具、小道具の製作が主で、人形はあまり作っていません。栄吉の人形は心串の肩板を入れる角度に特徴があり、耳たぶの直線に下っている頭が多いと言えます。昭和三年八月に死去。

三代目巳之助 栄松
三代目巳之助は生前一通り、どんな頭でも製作したと言われています。残っている作品は比較的少なく、あまり良い評価はされていません。昭和三十年一月に死去。
 
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